椿に座高計

本と生活の一部

2021/5/6『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究』

『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究
國分功一郎 熊谷晋一郎
新曜社

<責任>の生成ー中動態と当事者研究

<責任>の生成ー中動態と当事者研究

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 國分功一郎と熊谷晋一郎という既に多くの著作をもつふたりによる、約10年に及ぶ共同研究の過程が記されている。討論の形式で、前提としたい知識の確認とそれぞれが持ち寄った思考を共有しながら生の意見を交わすかたちで議論が進んでいく。

 タイトルの『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究』にあるとおり、中動態と当事者研究というトピックを通じて、哲学的な話題と日常生活における実感を往来しながら、〈責任〉という概念を問い直すための足場をつくっていくような本だ。國分が『中動態の世界―意志と責任の考古学』で扱いきれなかったと反省していた〈責任〉に対して、スピノザハイデッガーをはじめとする哲学者の引用によって、熊谷がおこなう当事者研究との呼応を通した再考が重ねられる。國分は「責任とはレスポンシビリティ、つまり応答ですね。自分がやってしまったことに対して自分が応答する。それがほんとうの責任感だと思うんです。」*1とし、「責任」という言葉を再定義しようとするとき、当事者研究が大きなヒントをくれるのだという。

 この本で主に当事者研究として取り上げられているのは精神障害や薬物依存症、自閉スペクトラム症ASD)などの例だ。「べてるの家」はこの当事者研究の先進的な取り組みで知られており、なにか起きたとき、その行為や状況の責任を個人に帰属しないために、そばにいる仲間とともに行為や状況を「現象」として捉えることにしている。放火をしてしまったひとと放火を切り離し、(フェーン現象などのような)「放火現象」として外在化する場合が例に挙げられていたが、こうしていったん免責することで最終的には本人が引責できるようになるのだという。

 当事者研究のさらなる例として、熊谷の共同研究者であり本人も自閉スペクトラム症ASD)を抱える綾屋紗月の「感覚飽和」について話題が移る。意識のなかの大量かつさまざまな種類の情報入力について、私たちの多くはほとんど無意識のうちに、カテゴライズし「まとめ上げ」たり、注目すべきものの「絞り込み」をおこなう。綾屋はこのまとめ上げと絞り込みに時間がかかるため、大量の刺激が等価に、しかも意味のまとまりにならないまま意識に上ってくるのだという。また、綾屋は「他の人より内発的な意志が立ち上がりにくい」としており、それは彼女の身体の外側からも内側からも大量のアフォーダンスがやって来るからなのだという。意志の原因となるそれらのアフォーダンスに対して「まとめ上げ」や「絞り込み」をして意志という合意を形成するのに長い時間がかかる。特に注目すべきは身体の内側からのアフォーダンス、「内臓からのアフォーダンス」である。アフォーダンスは非自己から働きかけられるものだが、従来は皮膚の外側にある「モノ」に対してのみ言われてきた。しかし、必ずしも皮膚の内側が自己とは限らないため、綾屋の「内臓からのアフォーダンス」への指摘は重要なものだ。そして、綾屋は外側からのアフォーダンスと内臓からのアフォーダンスは等価だと言うが、熊谷は厳密にはスピノザ哲学のキーワードである「コナトゥス」が含まれているか否かで異なっていると指摘する。コナトゥスという概念は、人間の身体に備わっている傾向性、つまり血糖値や酸素飽和度は決まった幅の値しかとらないという恒常性の維持を指す。よって、内臓からのアフォーダンスにはコナトゥスが含まれているのである。

 「予測誤差」という概念も自閉スペクトラム症ASD)の当事者研究において重要だと熊谷は言う。予測誤差とは期待や予測(以降、期待と予測は予測としてまとめられる)が裏切られる体験を指す。熊谷はASD当事者研究を通して、ASDの当事者の一部には予測誤差に敏感な体質があるのではないか、許容量を超える予測誤差に出会うとそれがトラウマになるのではないかという推察している。また、トラウマ記憶となる予測誤差は一回性の記憶であるからこそ、予測のできる範囲(=反復するカテゴリーに入れられた状態)に入れることができない。このように、予測は過去の体験を図式化したことで発生する。カントは図式化(多様なものを一般的な枠組みに当てはまる作用のこと)をおこなうのは「想像力」(「存在していないものを存在させる能力」)とした。大雑把なイメージからなるカテゴリーを想像力によってつくり、そこに多様な現実をカテゴライズしていく行為が図式化であるという。

 乳児や胎児においても予測誤差は見られる。彼らがするような指しゃぶりは最初から成功するわけではなく、うまく口に指をもっていくことができない状態から試行錯誤の末に達成される。スピノザはあらゆる個体にはコナトゥスがあり、個体の本質はコナトゥスであると言った。コナトゥスという個体の本質としての力には期待と予測が含まれており、それらとのズレがいわゆる刺激すなわち他なるものと考えられる。議論を進めるにつれて両名は、乳児は何かしらの期待=コナトゥス=図式化の最初の力を持ち、経験を重ねるにつれて予測が増え、パターンを学習していくとともに期待すなわちコナトゥスも拡張していくのではないだろうかと提案している。そして、期待をもったコナトゥスがある閾値を超えると想像力とでも呼ぶべき力を発生させるのである。

 熊谷は当事者研究とは、コナトゥスを認めてみずからの必然的な法則を知り、それを周囲に可視化するプロセスなのかもしれないとしている。外部から見えにくい障害ではコナトゥスも見えにくいため、当事者研究が外部の目に見えにくい障害の分野で活発な背景はここにあるのだと語る。國分もスピノザ哲学とは綾屋のように中動態的なプロセスを生きている人間が自由になるためにどうしたらいいのかを考えた哲学であるとしている。外部からの影響を受けつつもその人にはその人なりの反応があり、その必然性にうまく沿って本質を十分に表現することこそが、スピノザの言う自由であった。そして、この自由は当事者研究を通して見つめ直すことができる。当事者研究においては、カオスを生きてきた人の身体や経験のなかに一定の秩序・法則を見出しており、外部からの刺激を受けながらも自閉・内向している変状の過程に重きが置かれているからである。

 アガンベンは『身体の使用』において、そのタイトルのとおり「使う」という動詞を通して主体と客体の図式に対する批判をおこなっている。「使う」という動詞は、道具などに適用されることに慣れきっている動詞であるが、國分はこの動詞を通して、身体の器官あるいはその延長にあるものについて考えている。乳児は自分の手をうまく使うことができず、何度も試しながら「こう動かすとこう動くのだ」という再現性を体感できるようになる。このとき自分の手を自分の手と感じられるようになり、こう考えると道具とみずからの身体の器官を「使う」ことには差がない。「使う」ということを通じて人は自分を認識し、このことがアガンベンの「自己とは自己の使用以外のなにものでもない」という記述に至るのだという。

 ギリシア語で「使う」を意味するχρήσθαι(クレースタイ)という動詞には中動態しか存在しない。クレースタイを考えると、何かを使うためにはそれを使う主体にならねばならず、このとき主体や客体のひとつの組み合わさった何か、自己のようなものが構成されるのではないか。そして、主語が自己の生成する場所であることを示しているのではないかと國分は語る。熊谷は多飲症を通して、クレースタイ的な使用と支配的(abuse)な使用について『暇と退屈の倫理学』において國分が説明した消費と浪費を重ねながら考察する。自分が変化せずに水のほうばかりが変化していく一方通行の関係は支配的な使用であり、自分自身も水を飲む者として変化するとき、クレースタイ的な状態なのではないかという。そして、この支配的な姿勢はあらゆる生活と切り離すことが困難となった能動態/受動態の世界観につながる。

 能動態/受動態という観念が根強い理由は、ある行為の原因を誰かの意志に帰属させ、その人に責任を取らせるという司法的な仕組みがそれを要求するからといえる。しかし、こういった支配的な責任の捉え方では、本当の意味で責任を取ることには繋がらないのではないかと両名は意見を同じくしている。その行為の原因を意志に帰属させることは、行為に先立って存在していたさまざまな原因群を追求することを遠ざける。よって、國分が言うように責任とは自分がやってしまったことに対する応答であるとするなら、能動態/受動態的な責任論はむしろ無責任なものといえる。こうして両名は中動態的に「責任」という概念を捉えることで、世間一般で言われる「責任」とこの著書において問題としている「責任」との乖離を指摘するに至った。そしてこのような視座をもたらす過程には、中動態的なプロセスを見つめてきた当事者研究が大きく寄与していたのだ。

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 ノドに大きく余白があるほか、ふたりでの対談と質疑応答ではそれぞれ下部と上部に広い余白がとられている。速く読み進められたのはこのおかげもあるだろう。視覚的にくっきりと場面転換が起こることから、ノートのようだとも感じた。

 公開対談の形式で進むために、過去の回での話題を再度持ち出して議論する場面がしばしば見られる。この形式をとらずに出版されていたなら、おそらくより整頓されたかたちで論述されていたはずの重複は、この本が研究記録なのだということを実感させてくれるようにおもう。新しい話題に即して、同じもしくは類似の話題を反復することで両名の見識がまとまりながら広がっていくような印象を受けた。

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 最近はもっぱら遺伝学の実習で使用しているハエのライフスタイルに自分の生活を合わせているのだけれど、むしろ適度に振り回されているほうが他の物事にも集中できるような気がしてきている。

 予測誤差とトラウマの箇所を読みながら、ごく個人的な記憶をなにかのきっかけで呼び覚ましてしまうこと、もしくは自発的に掘り起こすことを考えた。どうしてもそういった記憶はトラウマなのだろうし、失態であったり考えたくないことのほうをすぐに想起するけれど(この本でも負の記憶を想定して話が進んでいる)、安らぎやうれしかったこともまたトラウマのようなものなのかもしれない。目の前の相手の返答を予測しながら話してきた日々のなかで、覚えているほとんどはおそらく予測誤差の範囲から逸脱した記憶なのだろう。しかし、好ましい記憶はその刺激を反芻することでうつくしさが丸みを帯びるのに反し、おもいだしたくない記憶ほど砥がれてしまうために嫌な記憶ばかり回想する頻度を増しているように感じる。

 当事者研究と哲学的な視座のそれぞれをほぐしながら練り上げるような議論を追いつつ、自分の身の振りかたを改めて考えたほうがいいと実感した。それは従来の方法を改めるということではなく、むしろ従来を細かく整理してみることで得られるものだとおもう。それと重なるところもある部分として、最後に紹介されていたアレントの「孤独」の定義がとても印象に残った。

*1:49頁から引用

2020/12/4『言葉を使う動物たち』

『言葉を使う動物たち』
エヴァ・メイヤー
安部恵子訳
柏書房

言葉を使う動物たち

言葉を使う動物たち

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 以下で「動物」と表記するとき、人間を除いた意味で用いている場合がある。

 こうした註釈が動物を扱う書籍によく見られることからも言えることだが、長きにわたって人間と動物は比較されてきた。主に哲学の分野でこの分別はなされ、その際に「言語」に注目した論が立てられることもしばしばである。人間と動物を分離して考え、人間は言語を持つが動物は持たないとする哲学者が(少なくとも紹介されていたなかでは)多数を占める。
 それに対して著者は、人間が決める言語の定義は人間に都合よくできているのが常であるとして、他の動物の言語についてその基準を当てはめながら評価することに警鐘を鳴らす。動物は専ら人間の言語とは異なるかたちで、それぞれの種において、または種を越えてコミュニケーションを図っている。この本ではコミュニケーションが行動としてあらわれる例をいくつも引きながら、動物の言葉についての考察をおこなう。また、それらの考察を通して、動物は人間に劣る存在ではないということを訴えている。

 動物の言語を考えるときには、ウィトゲンシュタインが提唱した「言語ゲーム」の考えかたが役に立つという。言語とは異なる無数の方法で使われていて、言葉やその概念の意味すること、「言語」という単語の意味内容も状況によって変わりうる。だからこそ個々の言語の使用例に言及することはできたとしても、言語一般として扱うことは不可能である(これがゲームのありようと類似している)。固定した定義がないことは、個々の動物の言語(必ずしも発話に限定されないコミュニケーション)の使用例を調査するという研究の指針となる。

 ウィトゲンシュタインは、言語はわたしたちの生活の仕方に結びついており、特定の活動を通して何らかの文脈のなかでのみ意味を獲得するとも述べた。よって、他者の言語に言及するなら、その言語が実際に使われているときの活動を研究する必要がある。わたしたちが他者(ここではヒトを含む動物全般)を理解しがたいとおもう理由は、彼らの心・思考に手が届かないからではない。彼らの習慣や礼儀作法をはじめとする、共生するにあたって意味を与えるものをわたしたちがよく知らないからだ。

 だからこそ、動物であっても彼らの文化を知ったうえで「ともに考える」ということが重要になる。ともに考えて話し合うことを可能にしてくれるのは言語である。彼らと話し合うためには、人間が抱く言語観を刷新しなくてはならない。人間に求められるのは、現在の動物が使う言語とその表現形態を斥けることなく、むしろそのありようから内面生活などの新たな意味を見出すということだ。わたしたちは動物の言語を言語であると認め、それについて考えることによって、動物との新しい関係性を築く可能性を手にすることができる。

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 動物界に属するひとつの種であるヒトをそれ以外の動物と分別することに意味はあるのか正直よくわからない。だけれど言ってしまえばそういった特定種間での相対化をおこなう(おこなってしまう)ところに人間らしさはあるのかもしれないとおもう。脳の容積的にも、そんなことを考えている余裕(暇)があるという点でもこんな分別をするのは人間くらいだろう。*1

 蛇足として、この文章を書きながら、学校で系統分類学(○○門、○○目のように生物をさまざまな階級においてグルーピングすること)を勉強したときにもウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念が紹介されていたことをおもいだした。グループそのものの固定した定義はなく、そこに入れられる個々の生物の特徴によってグループおよび分類がかたちづくられる。

 「動物」という実体の定まらない区分を設けたうえで、自分たち人間を中心にしながらその他の「動物」と線を引きたがるのは、きわめて露悪的に言えば滑稽にすら感じてしまう。著者も動物に向けられた差別的な見解を否定しながら論を進めているが、そのなかで、人間の言語に則って動物の言語を評価することはナンセンスであり動物の言語を正当に理解することにならない、という主張が見られる。これを敷衍すると、人間が勝手につくった複数の基準のもとで人間とそれ以外の動物を引き離そうとするこころみそのものをなんとなく疑問視したくなってしまう。結局人間がつくったルールのなかで人間を特別視して喜んでいるだけなのでは……?

 もしかしたらわたしのように感じるひとよりも、人間と「動物」をもともと区別しているひとのほうがエポックメイキング的に興味深く読めるのかもしれない。

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 実習はオンラインになりつつあるが、それでもたまに実験室で手を動かす機会がやってくる。実習をした後はしばらく料理をしたくなるとこの前から感じていたのだけれど、わたしの場合は使う回路が同じみたいだ(でもむかし読んだ小説にていねいなお弁当をつくる実験好きな大学教員が出てきた覚えがあるので、けっこうありふれているのかもしれない*2)。特にいろいろと試薬を混ぜたり温めたり放置したりする作業を組み合わせていく実験は、並行して複数の料理をつくっていく工程によく似ている。

 そういう生化学的な実習もある程度やりがいはあるのだけれど、やはり自分で設計した実験のほうがたのしいものであってほしい、と縋るような期待を抱いている。現時点では鳥の行動を扱っているラボに惹かれているので、そういった行動を知るための実験になるのではと予測中だ。動物の行動を研究する姿勢についてはこの本でもふれられている。ヒヒの研究者のように、動物に合わせた住空間と習慣を通してともに生きれば、互いの理解を深めることができるのだという。いまではまだ鳥とともに生きる術がわからない(そもそもたぶん鳥はラボでのみ生活する)けれど、そうして得られる動物への理解が倫理的にはたいせつであっても、実験材料とするときには逆に障害になるということはないのだろうか。このあたりは他の書籍も参照しながらもう少し考えてみたい。

 そういった実験をしながらでも、わたしはわたしでおいしく料理が食べられることを祈っている。

*1:もちろんこうした分別が暇なやつのすること、ということではない。人間がおこなう論理的思考のほとんどは採集・狩猟に費やす時間や縄張りの維持に必要な時間が減ったことによって営まれていると理解をしているので、多くの動物はそもそも概念のレベルまで思考をめぐらす時間的余裕がないだろうということ。

*2:すぐに確認できないのだけれど、確か瀧羽麻子『うさぎパン』(幻冬舎文庫

2020/11/13『手の倫理』

『手の倫理』
伊藤亜紗
講談社

手の倫理 (講談社選書メチエ)

手の倫理 (講談社選書メチエ)

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 「さわる」と「ふれる」の違いを考えるところから、この本は始まる。著者の伊藤は序文で坂部恵の論を引くことで「さわる」は一方的であるが、「ふれる」は相互的であると紹介している。

 触覚は「対称性」とよばれる、主体と客体の入れ替え可能性が特徴的だ。「対称性」によって、わたしたちが自分の体にふれるとき、「ふれられているのは私だ」という感覚がもたらされる。この「対称性」について、伊藤は「ふれる」という観点から考察を加えている。「ふれる」行為がなされる際、ふれる側のふれられる側に対する信頼と、ふれられる側のふれる側に対する信頼が問題になる。まず、「ふれる」側というのは手を伸ばす側ということでなく、接触の方法をデザインする主導権を握る側であるという。だからこそ、先に述べた2つの信頼は異なるものとなる。前者はふれたことによる相手のリアクションが読めないことを超えること、後者はふれようとしている相手のリアクションが読めないことを超えることがそれぞれの信頼である。

 そうして形成された信頼に度合いはあるだろうが(心から、ということもあればやむを得ずということもある)、ふれた後は「じりじり」としたコミュニケーションがなされることとなる。この「じりじり」というのは熊谷晋一郎によると「ほどきつつ拾い合う関係」であるらしい。互いに相手の体に入り込む2つの体のあいだには、変化する相手の体の状態を聞き取ろうとするコミュニケーションの持続が求められる。

 鷲田清一は「ふれる」と「さわる」は単純に対立するものではなく、入れ子構造のような関係にあると論じた。わたしたちの体は物質であり、自然であり、時間的に変化していくものである。相手との触覚的なコミュニケーションは、その根底に非人間的な(倫理を超えた)自然の次元を含む。それはときに人間の死というかたちであらわれ、その絶対的な遠さに「尊さ」や「畏怖」を覚える。「手の倫理」はこの次元に対して「尊さ」や「畏怖」を含む「さわる」側面をもちながらも、先述してきた相互的な「ふれる」関係をも導くことができる。

 不埒な欲望や刺激を生じさせる可能性を保持する手は道徳的ではないかもしれないが、だからこそ手によってわたしたちはみずからの異質さに出会うことができる。その意味で、手は倫理的でありうるのである。

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 伊藤亜紗の著書らしく、というよりもそれらが執筆の契機になっているようだが、さまざまな個別のエピソードが随所に挟まれる。伊藤が継続的にインタビューをおこなっている障害をもったひとびとだけでなく、ラグビー部の監督や介護士、みずからの子息まで登場するエピソードの数々は、主張に沿うように配置されながらもそれぞれが興味深い。

 それらが大学での講義をおこなう際に引き出される雑談のように挟まれることで、わかりやすいだけでなく、疲れることなく読み進められるとおもう。こういった文章が伊藤の著書の魅力なのではないかということを彼女の他の著書をめくりながら考えていた。

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 テストが重なり、暇だろうと高を括っていた11月はもう13日になってしまった。この本は発売日すぐくらいの時期に購入して、少しずつ読み進めていくなかで、何度か『逃げるは恥だが役に立つ』のことをおもいかえした。原作も持ってはいるのだけれど、ここではテレビドラマ版の話に留めたい。

 このドラマでは合意形成が繰り返しおこなわれる。最初は住み込みでもない家事代行人だったみくりと雇い主である平匡は、雇用関係においても私的なパートナーとしても、口頭および書面での合意をたびたび明らかにしようとする。ハグを提案するみくりと頻度を交渉する平匡は物語を通して日常的にさまざまな合意を交わしながらふれあっていく。その誠実さに、わたしは「ふれる」という行為に、直接的にも間接的にもとても近い姿勢を見出す。

 最終話ではみくりの伯母である百合が風見と互いの気持ちを確かめるというシーンがあるものの、直後に風見がキスをしようと顔を近づけて百合に驚かれてしまう。そういった描写はみくりと平匡のあいだにはあまり見られない。それはみくりと平匡が相手に対してアクションを起こす前に宣言をしていたからだろう。そういった予告のないままになされた行為も描かれるけれど、その多くはネガティブな結果をもたらしてきた。彼らは恋人関係になっても両手を広げて合図をした後にハグをおこない、生活に対する不満を会議によって解消しようとする。そうすることで双方は少しでも快い暮らしをつくる努力をしているのだとおもう。

 『逃げるは恥だが役に立つ』は放送時からとても好きなテレビドラマで、さいきん同局で放送された、一見題材が似た(まったくの別物だが)作品を流し見していたときに、どうしてこうも『逃げ恥』と違うのだろうともやもやしていた原因のひとつが見つかった気がした。同じく野木亜紀子が脚本を務めた『アンナチュラル』でも、同僚の部屋に置いてあった絵本を見てもいいか許可をとる場面があり、そのシーンもとても好き。こういった誠実さを感じるテレビドラマをわたしはずっと応援していきたい。

2020/10/27『震えのある女 ─ 私の神経の物語』

『震えのある女 ─ 私の神経の物語』
シリ・ハストヴェット
上田麻由子 訳
白水社

震えのある女 ─ 私の神経の物語

震えのある女 ─ 私の神経の物語

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 亡き父親のための記念植樹に際してのスピーチで、筆者は突然の「震え」に襲われる。それも声をはじめとする頭部には異常がなく、電気椅子にかけられたような痙攣が認められるのは首から下のみであった。そのようすは「顎から上はよく知っている私だったけれど、首から下では他人が震えていた」と記されている。彼女は脳科学や精神医学、哲学などの知見を得ながら「震えている女」を捜すことにする。

 序盤で、彼女は自身の症状を転換性障害(しばしばヒステリーと混同されることもある)によるものと考えて主に医学の文献をあたっていた。そのうちに「解離」という概念、ピエール・ジャネによるヒステリーとは自己を裏切った部分をやみくもにさまよわせる体系的な分裂であるという考えや「満ち足りた無関心」という自身の病気に対して無関心になる例などに出会う。そして、さまざまな事例に自身を引き寄せては対比するという行為を繰り返す。

 「震え」の正体を捜すことは、ともすれば現在起こっている現象を報告済みの症例という枠に当てはめることになる。けれど、その過程でもなお、彼女はそれぞれの境界とは距離を保ち続ける。多大かつ広範な文献を参照しながら、それぞれのケースの患者や疾患のあいだにある違いや、それらとみずからの差異を整理して自己の境界を見定めていく。

 そういった行為を通してハストヴェットは「震えている女」つまりは自身のなかにある制御できない他者と向き合っている。分身譚をめぐる多分野の文献やミラーニューロンの研究とも照らし合わせながら、「震えている女」を自身の一部として受け入れ、タイトルである「震えのある女」(“The Shaking Woman”)を自称するようになるまでの過程がこの本では描かれている。

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 明確な章立てが存在せず、随所で頭文字が大きくなることでのみ区切りを設けていて、エッセイでありながらも日記のようだとおもう。もちろん両者はともに筆者個人を描写するものであるが、それでも多くのエッセイはそれぞれが独立していることによってそれらの持つ空気はある程度隔てられているようにおもわれる。この本は筆致が地続きで、ほんとうに答えの見えない洞窟をさまざまな道具とともに彷徨っているような印象を受けた。

 そのせいもあるのだろうけれど、読み進めるごとに、読み終わるのが惜しいというよりもこの本を読み終えることができてしまうということへの寂寥感がつのった。この本が存在しているということは、ハストヴェットによる「震えている女」の捜索に彼女はいったんの区切りを設けているということで、その事実に対して少しだけやりきれない気持ちになった。しかしそういう気持ちにさせてくれるほど、すばらしい本であることも付け加えておきたい。

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 読了という言葉が苦手で、というのも読み終えるという行為は(少なくともわたしにとっては)とてもむずかしいからだ。幼いころから何度も読んでいた川原泉作品でも読み返すといまだに気づくことがあるし、ずっと本はそういう存在だった。この本でもさまざまな精神と身体にまつわる知見を取り扱っていて、それだけでも読み返したくなる本だけれど、それ以上に彼女自身の思考やときには苦悩にふれて、その軌道をなぞっていたくなることがこの先もあるのだろうなとおもった。

2020/10/2『中動態の世界 意志と責任の考古学』

『中動態の世界 意志と責任の考古学』
國分功一郎
医学書

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「ケアをひらく」シリーズということで、冒頭には依存症の患者との対話が置かれている。本人の意志ではやめられない、という問題であるにもかかわらず、どうしても違法薬物やアルコールへの依存は本人にその責任が委ねられてしまう。そのときに意志の問題が取り沙汰される。この問題に、國分はみずからを取り巻く言語というシステムを客観視するところを出発点に考えを巡らせていく。

スピノザによると、行為は意志を原因としない。意志は「自由な原因」ではなく「強制された原因」である。われわれの精神は物事の結果のみを受け取って、結果の時点で効果として残る意志を原因と取り違えてしまうらしい。

そこで國分はすべての行為を能動と受動に配分するという区別の不便さ・不正確さを指摘する。この対立が存在する言語に慣れ親しんでしまうとこの区別は必須におもわれるが、ある段階で、能動態と対立するのは中動態であった。能動と受動の対立では、「するかされるか」が論点となるが、能動と中動の対立では、「主語が過程の外にあるか内にあるか」が論点になる。この地点から、バンヴェニストの論文とアレントをはじめとするさまざまな哲学者の見解を参照し、「中動態」という概念と、そこに結びつく意志の問題を説明していく。

中動態のなかから受動態が派生し、出来事を描写する言語から行為者を特定する言語へと移行したことで能動と受動の区別が定着していった。ある行為にかかわる過程には多くの要素が参与するが、この過程を行為者に帰属させ、帰属先として要求するのが意志であるという。この行為の帰属や意志の存在をめぐる強い信念こそが中動態を抑圧するエネルギーになっている。

最終的には第8章で展開されるスピノザ哲学の目指す「自由」についての議論に向かっていく。スピノザ本人は『ヘブライ語文法綱要』において「中動態」という語を用いないまま能動態と受動態の外側にある形式を取り扱うが、この失われた態こそがスピノザ哲学の「内在原因」につながっているという。

内在原因とは神と万物の関係を定義するもので、神なる実体はこの宇宙あるいは自然そのものであり、そうした実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在している、つまり、あらゆるものは神の一部であり神の内にあるという考えかただ。神は万物の原因という意味で作用を及ぼすが、その作用は神の内に留まる。

アガンベンは『エチカ』の「様態的存在論」は「中動態的存在論」としてしか理解できないと主張する。「外」のない世界において神すなわち自然そのものを説明するとき、中動態に対立する意味での能動態(外で完遂する過程を示す態)には出番がなく、「内在原因」は中動態の世界を説明する概念であるらしい。

しかし、神すなわち自然そのものは能動と受動の区別を受け入れないにしても、そのなかにある個物については作用するものと作用を受けるものという区別が残る。神なる実体はこの宇宙あるいは自然そのものであり、そうした実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在している、というときの「変状」には、個物としての様態という意味と個物が呈する一定の状態(二次的な変状)という意味がある。このとき前者があらゆる様態は能動であるのに対し、後者は受動であると考えられる。

『エチカ』のなかで能動は目指すべきもの、受動は斥けるべきものとされており、前述した能動/受動の区別のように視点の違いに還元できるものではない。ここで二次的な変状さえも能動たりえるということに疑問が生じるが、それは次のように解決される。

スピノザは能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。スピノザの言う能動とは個体が受ける刺激の種類・量と、その力としての本質の両方に依存している。個体はいつでもどこでも能動的であることはできないが、みずからの本質(個体の力の度合い、変状を通して弱まりも高まりもする)が原因となる部分をより多くしていくことはできる。

スピノザ哲学における「自由」は能動的ということである。「自由」は「強制」と対をなし、自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由であるとされる。ひとびとは必然的な法則に囚われたときではなく、みずからの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。必然的な法則は個人によって異なるものであり、だからこそ、自由になる道筋もひとりひとりで異なる具体的なものになるのである。

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読みながら(特に明確な理由もなく、ただの直観で)吃音っぽいなと感じていて、第9章で吃音を抱える人物が登場する物語の読解をおこなっていたのに感動した。

専門外の本だと、知らないことを反芻するのが精一杯になってしまい、反論の前に出直してきます……という気持ちになってしまう。

『中動態の世界』や『どもる体』のほかにも、医学書院からはほんとうに面白そうな本がたくさん出ていて、ひとまず手元にある、樋口直美『誤作動する脳』と宮坂道夫『対話と承認のケア ナラティヴが生み出す世界』を年内に読みたいなとおもっている。

また、スピノザに関係する脳科学の本も積んでいるので早めに手をつけたい。

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さいきん本を読むときにノートをつけるようになったのだけれど、他の本のときと比べてこの本は使った枚数がやたらと多くなった。人文系の書物をここまできちんと時間をかけて読んだのがたぶん初めてで、知らないことを書き留めていたらこんなことに、という感じで増えてしまった。

学校で理系に分別される勉強をしていることもあって、文系はたいへんだなあという(あまりに失礼なことなのだが)同情めいた気持ちになってしまった。とにかく人間が為したことの積み重ねの上でしか研究がおこなわれない、ということの途方のなさを実感した。

ゆらぐものは基本的に好きなのだけれど、絶対視できるものがないことで自分の足元までもがゆらぐ感覚をひさしぶりに味わって、その感覚のまま(この本とは関係のない内容の、短歌にまつわる)評論のメモが書けたようにおもう。

学校でおこなっている勉強は、観察対象・観察結果を絶対とする世界なので、こういった感覚を手放さないようにしながら考えをまとめるということをできるだけ継続していきたい。

(実習の前に急いで書いたので、追って修正するかもしれません)

2020/9/24『記憶する体』

『記憶する体』
伊藤亜紗
春秋社

記憶する体

記憶する体

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おそらく伊藤亜紗が他の著書でも書いていたことなのだけれど、プロローグ冒頭からすばらしかった。

体について研究する面白さは、合理的に説明がつかない部分が必ず残ることです。

この一文から、自身の執筆環境についての記述に入り、個々人のもつ「法則」の話になっていく。

 この体やあの体のローカル・ルールを記述すること。
 その体の、他には代えがたいローカリティ=固有性の成り立ちを解明すること。
 うまく言えないのですが、身体の研究者としていつも圧倒されているのは、実はこの固有性の方なのです。

この「固有性の圧倒」に対して答えを出すために、障害をもつひとびとへのインタビューをおこないながら「記憶」をテーマに書かれている。テーマにするといっても、演繹的に当てはめるような方法をとらずに個々のケースを強引につなげることなく考えられている。

11のエピソードから成っていて、ケース間での類似点と相違点を確認しながら話は進められる。特に「見えない」ひとと幻肢をもつひとのエピソードが豊富で、その違いなどを興味深く読んだ。

目が見えていなくても思考の過程としてメモを取ったり、点字にふれることで対応する色が頭のなかで明滅したりと「目が見えない」当事者によってほんとうにさまざまな変化がある。

また、幻肢に関しては、幻肢痛をもたないが幻肢をもつ場合、幻肢の手が体内に入っているという場合、実際に腕が胴体についていて動くにも拘らず幻肢痛がある場合などが紹介されていた。

幻肢痛は、「動くだろう」という脳の予測に対して実際に動いたという結果報告がないことで生じると考えられている。その痛みの度合いには、幻肢をどの程度動かせるかどうかが大きく関係しているという。幻肢痛をもたないが幻肢をもつ大前さんはダンサーで、足裏を「キュッと丸め」るようにして、幻肢を意識的に操作しているらしい。

先天的に体の一部を失ったケースと後天的なケースの違い(生まれつき片手のみをもつ場合は幻肢も存在しないことや、そもそも両手に慣れていないために義手をいつ使えばいいのかわからないといった感覚の違い)もていねいに説明されていた。

その他にも耳が聞こえない場合や、吃音、CIDP(慢性的な痛みを伴う神経病)、若年性アルツハイマー認知症などの当事者にまつわるエピソードが書かれていて、どれも興味深く読んだ。

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インタビューを基に書かれた本ということもあり、とてもすらすらと読めた。以前、NHKで放送されていた番組*1伊藤亜紗が「ナウシカは聴き上手ですよね」と話していたが、おそらくそれは伊藤本人もそうだからだとおもう。

こういった本やインタビューはともすれば障害をもっていてもそのひとらしく生活していてすごい、といった空気を受け取ることがあって苦手なのだけれど、この本はそういった雰囲気が一切なく、潔く感じる。本のなかでも、「最初に『病気』がくることに違和感があって、まず『私』があり、それが病気を抱えているという関わりがしたい」という当事者の発言が印象的だった。

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やっと学校の成績が発表された。とりあえず単位を落としてはいなかったのと、そんなに悪くもなかったのでいいことにする。悪いだろうと予想していたのは(単純に悪いように考えておくことでショックをやわらげる癖はあるにしても)、オンライン授業が苦手で仕方がなかったからだ。1学期に勉強した(ことになっている)事項をなにも覚えていない。

吃音は危惧していたよりは悪化しなかったけれど、今もZoomで親しくないひとと話しているときに吃音が出たときの対処法がまったくおもいつかない。特に英語だと、回避する場所がどこにもなくてつらかった。

春に『どもる体』(伊藤亜紗医学書院)を友人から借りて読んだのだけれど、返してから必要な本だと感じてこのまえ自分でも購入した。落ち着いた状態で読んでいきたいとおもう。『手の倫理』も10月に出版されるらしく、こちらも心からたのしみにしている。

2学期はなるべく家以外で勉強ができることを願っている。課題も減るといいな。

*1:コロナ新時代への提言2

2020/9/22『ヒトの目、驚異の進化』

『ヒトの目、驚異の進化』
マーク・チャンギジー
柴田裕之 訳
ハヤカワノンフィクション文庫

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一貫して、進化においてどのような利点があったのか(なぜ自然選択されたのか)という点からヒトの視覚について考察をおこなっている。

全4章からなり、第1章から順に色覚、両眼視、錯視、読字を取り扱う。それぞれの章に主張が設けられていて、各章ではその論拠が示されるかたちで話は展開されていく。

まず、第1章ではヒトの色覚は肌がよく見えるように進化したという主題が置かれる。体のなかで「むき出し」の部分(進化過程で新たにむき出しになってきた部分)は色によるシグナリングをおこなう(例えば血液の酸素飽和度が高いと肌は赤みがかって見えるが、逆に低いと緑っぽく見える)。著者はこの利点として、肌の色調変化は意識的な操作が難しいと続ける。ヒトは互恵的利他行動をとるが、その際に裏切り者を見分けるために進化したのだと言う(これよくわからなかった。後悔を赤面であらわすことで裏切り者でないと判断するそうなのだけれど、そんなごく部分的な理由で進化することあるんだろうか)。もちろん生理的な状態を伝える(健康アピール)というのも利点に挙げられる。

個人的に、この章の結びを特によいなと感じた。目はその持ち主にとってX(ヒトの場合は肌)がいちばんよく見えるように淘汰されるのでX色の眼鏡で全世界を眺めることになる(そのためみずからと近い肌の色を無色と感じ、それ以外の肌の色を異色であると感じる)。そのため色のついたものを見るときに、生物によって見えかたはそれぞれ異なってくる。その点で白黒写真は(白と黒の見えかたは種にかかわらず同じであるから)真に対象のあるがままに近い姿を映しているとも解釈できるという。

第2章では両目が体の前後についていない代わりに重複する視野を持つ理由を説明する。従来、両眼視は立体視のためと言われてきて、わたしも学校でそう習ってきた。しかし著者は、それ以上に「透視」のためであると主張する。2つの目が同じ方向についていることで脳には2つの映像が入ってくる。ヒトはそれらを統合して1つの視覚(=フィクション)を形成している。このしくみが備わっているために、小さい葉や草によって見通しの悪い世界だと、それらを透明化できる(目の前に邪魔かつ両目をすっぽり覆うほどでないものが出されたときに、覆われて見えないはずの世界が見えるのと同じ)というわけだ。透視能力は前方に新たな視野の層を加えたとも言える。

第3章では錯視をとり扱う。錯視が起こるときに、脳は目の前の現実と一致しない知覚を構成している。これは視覚系が未来を予見していて、その情報が現在の知覚を生み出していることによる。予見した未来がやってこないときに錯視が起こる。

視野が球面状であるために非ユークリッドの歪みがもたらされる(球面上の平行線はその外側から見たときに平行とは言えない)。ぼやけによって脳は網膜から未来を読み取ることが可能になり、自己運動によってコントロール可能なぼやけが生み出される。この2つの歪みが錯視につながる未来予見を助けているらしい。

第4章では読字、特に文字表記は視覚に適応するために進化したということがテーマになる。人間は何百万年もかけて自然を視覚的に処理するのがうまくなるように進化してきたので、文化は自然界に見られるものの構成部分に似た文字をデザインした。

人間は読むよりも先に、話したり聴いたりするコミュニケーションが発達していた。そのため子供の絵などではシンボルを使って物語を伝えようとする。「もの」を認識するように進化してきたわたしたちの視覚系をうまく利用するためには「もの」に似た文字をメディアとして使う必要がある。

しかし、アルファベットなどの発話表記では、シンボル(=文字)は話し言葉の音声を表す反面、具体的な「もの」のイメージには結びつかない。よって文字そのものが自然界の一部に似た構造(箱の隅角がL、4つの箱が2×2で積んであるときの中心がX、といったように)を持つように進化してきたようだ。そして自然界でそのような配置になる確率が比較的低い文字は、比較的高い文字よりも単語中の登場回数も低いという(Xから始まる単語よりもLから始まる単語のほうが多いらしい)。

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著者の軽妙な語り口としばしば挟まれるジョークに加え、シュールな図版がいくつも入った全体的にユーモラスな本だとおもう。特に第2章ではあまり主張に直結しない部分の説明のためにトラクターから両目が伸びていたり人間の背後に目が生えていたりと奇妙な絵が多く入れられている。翻訳書にありがちな、あまりにユーモラスが過ぎる本は読んでいてつらくなってくるのだけれど、よい塩梅でそこまで苦痛にならずに読めた。

自分の理論を革新的と持ち上げる反面で凡人(のように描かれるひとびと)をいかにも無知といった様子で書かれた箇所が複数あって(ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだときにも同様の印象を抱いた)、そこは読んでいて微妙な気持ちになった。

それでもなお、前評判のとおり面白い本だった。とにかく主張が明白で、それを繰り返しながら論拠を説明していくので話が追いやすい。進化的な視座から形態・機能を考察する本はまだまだ出てきてほしい。

蛇足としては、こういう本について書くときに「視点」とか「視座」という言葉はややこしくなるため使いにくくて少し不便だった。

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日曜日の朝からずっとからだが重くて仕方がなくて、やっと今日になって軽くなった。そのために基本的に家の片づけをしていた。片づけるたびに、生活をうつくしくしないものを大量に保管しておかないといけないことに辟易している。それでも衣類を中心に多くのものを手放すことができた。できることなら9月中に本棚を組み立てて新しい本棚をつくりたい。