椿に座高計

本と生活の一部

2020/10/2『中動態の世界 意志と責任の考古学』

『中動態の世界 意志と責任の考古学』
國分功一郎
医学書

***

「ケアをひらく」シリーズということで、冒頭には依存症の患者との対話が置かれている。本人の意志ではやめられない、という問題であるにもかかわらず、どうしても違法薬物やアルコールへの依存は本人にその責任が委ねられてしまう。そのときに意志の問題が取り沙汰される。この問題に、國分はみずからを取り巻く言語というシステムを客観視するところを出発点に考えを巡らせていく。

スピノザによると、行為は意志を原因としない。意志は「自由な原因」ではなく「強制された原因」である。われわれの精神は物事の結果のみを受け取って、結果の時点で効果として残る意志を原因と取り違えてしまうらしい。

そこで國分はすべての行為を能動と受動に配分するという区別の不便さ・不正確さを指摘する。この対立が存在する言語に慣れ親しんでしまうとこの区別は必須におもわれるが、ある段階で、能動態と対立するのは中動態であった。能動と受動の対立では、「するかされるか」が論点となるが、能動と中動の対立では、「主語が過程の外にあるか内にあるか」が論点になる。この地点から、バンヴェニストの論文とアレントをはじめとするさまざまな哲学者の見解を参照し、「中動態」という概念と、そこに結びつく意志の問題を説明していく。

中動態のなかから受動態が派生し、出来事を描写する言語から行為者を特定する言語へと移行したことで能動と受動の区別が定着していった。ある行為にかかわる過程には多くの要素が参与するが、この過程を行為者に帰属させ、帰属先として要求するのが意志であるという。この行為の帰属や意志の存在をめぐる強い信念こそが中動態を抑圧するエネルギーになっている。

最終的には第8章で展開されるスピノザ哲学の目指す「自由」についての議論に向かっていく。スピノザ本人は『ヘブライ語文法綱要』において「中動態」という語を用いないまま能動態と受動態の外側にある形式を取り扱うが、この失われた態こそがスピノザ哲学の「内在原因」につながっているという。

内在原因とは神と万物の関係を定義するもので、神なる実体はこの宇宙あるいは自然そのものであり、そうした実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在している、つまり、あらゆるものは神の一部であり神の内にあるという考えかただ。神は万物の原因という意味で作用を及ぼすが、その作用は神の内に留まる。

アガンベンは『エチカ』の「様態的存在論」は「中動態的存在論」としてしか理解できないと主張する。「外」のない世界において神すなわち自然そのものを説明するとき、中動態に対立する意味での能動態(外で完遂する過程を示す態)には出番がなく、「内在原因」は中動態の世界を説明する概念であるらしい。

しかし、神すなわち自然そのものは能動と受動の区別を受け入れないにしても、そのなかにある個物については作用するものと作用を受けるものという区別が残る。神なる実体はこの宇宙あるいは自然そのものであり、そうした実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在している、というときの「変状」には、個物としての様態という意味と個物が呈する一定の状態(二次的な変状)という意味がある。このとき前者があらゆる様態は能動であるのに対し、後者は受動であると考えられる。

『エチカ』のなかで能動は目指すべきもの、受動は斥けるべきものとされており、前述した能動/受動の区別のように視点の違いに還元できるものではない。ここで二次的な変状さえも能動たりえるということに疑問が生じるが、それは次のように解決される。

スピノザは能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。スピノザの言う能動とは個体が受ける刺激の種類・量と、その力としての本質の両方に依存している。個体はいつでもどこでも能動的であることはできないが、みずからの本質(個体の力の度合い、変状を通して弱まりも高まりもする)が原因となる部分をより多くしていくことはできる。

スピノザ哲学における「自由」は能動的ということである。「自由」は「強制」と対をなし、自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由であるとされる。ひとびとは必然的な法則に囚われたときではなく、みずからの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。必然的な法則は個人によって異なるものであり、だからこそ、自由になる道筋もひとりひとりで異なる具体的なものになるのである。

***

読みながら(特に明確な理由もなく、ただの直観で)吃音っぽいなと感じていて、第9章で吃音を抱える人物が登場する物語の読解をおこなっていたのに感動した。

専門外の本だと、知らないことを反芻するのが精一杯になってしまい、反論の前に出直してきます……という気持ちになってしまう。

『中動態の世界』や『どもる体』のほかにも、医学書院からはほんとうに面白そうな本がたくさん出ていて、ひとまず手元にある、樋口直美『誤作動する脳』と宮坂道夫『対話と承認のケア ナラティヴが生み出す世界』を年内に読みたいなとおもっている。

また、スピノザに関係する脳科学の本も積んでいるので早めに手をつけたい。

***

さいきん本を読むときにノートをつけるようになったのだけれど、他の本のときと比べてこの本は使った枚数がやたらと多くなった。人文系の書物をここまできちんと時間をかけて読んだのがたぶん初めてで、知らないことを書き留めていたらこんなことに、という感じで増えてしまった。

学校で理系に分別される勉強をしていることもあって、文系はたいへんだなあという(あまりに失礼なことなのだが)同情めいた気持ちになってしまった。とにかく人間が為したことの積み重ねの上でしか研究がおこなわれない、ということの途方のなさを実感した。

ゆらぐものは基本的に好きなのだけれど、絶対視できるものがないことで自分の足元までもがゆらぐ感覚をひさしぶりに味わって、その感覚のまま(この本とは関係のない内容の、短歌にまつわる)評論のメモが書けたようにおもう。

学校でおこなっている勉強は、観察対象・観察結果を絶対とする世界なので、こういった感覚を手放さないようにしながら考えをまとめるということをできるだけ継続していきたい。

(実習の前に急いで書いたので、追って修正するかもしれません)