椿に座高計

本と生活の一部

2020/10/27『震えのある女 ─ 私の神経の物語』

『震えのある女 ─ 私の神経の物語』
シリ・ハストヴェット
上田麻由子 訳
白水社

震えのある女 ─ 私の神経の物語

震えのある女 ─ 私の神経の物語

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 亡き父親のための記念植樹に際してのスピーチで、筆者は突然の「震え」に襲われる。それも声をはじめとする頭部には異常がなく、電気椅子にかけられたような痙攣が認められるのは首から下のみであった。そのようすは「顎から上はよく知っている私だったけれど、首から下では他人が震えていた」と記されている。彼女は脳科学や精神医学、哲学などの知見を得ながら「震えている女」を捜すことにする。

 序盤で、彼女は自身の症状を転換性障害(しばしばヒステリーと混同されることもある)によるものと考えて主に医学の文献をあたっていた。そのうちに「解離」という概念、ピエール・ジャネによるヒステリーとは自己を裏切った部分をやみくもにさまよわせる体系的な分裂であるという考えや「満ち足りた無関心」という自身の病気に対して無関心になる例などに出会う。そして、さまざまな事例に自身を引き寄せては対比するという行為を繰り返す。

 「震え」の正体を捜すことは、ともすれば現在起こっている現象を報告済みの症例という枠に当てはめることになる。けれど、その過程でもなお、彼女はそれぞれの境界とは距離を保ち続ける。多大かつ広範な文献を参照しながら、それぞれのケースの患者や疾患のあいだにある違いや、それらとみずからの差異を整理して自己の境界を見定めていく。

 そういった行為を通してハストヴェットは「震えている女」つまりは自身のなかにある制御できない他者と向き合っている。分身譚をめぐる多分野の文献やミラーニューロンの研究とも照らし合わせながら、「震えている女」を自身の一部として受け入れ、タイトルである「震えのある女」(“The Shaking Woman”)を自称するようになるまでの過程がこの本では描かれている。

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 明確な章立てが存在せず、随所で頭文字が大きくなることでのみ区切りを設けていて、エッセイでありながらも日記のようだとおもう。もちろん両者はともに筆者個人を描写するものであるが、それでも多くのエッセイはそれぞれが独立していることによってそれらの持つ空気はある程度隔てられているようにおもわれる。この本は筆致が地続きで、ほんとうに答えの見えない洞窟をさまざまな道具とともに彷徨っているような印象を受けた。

 そのせいもあるのだろうけれど、読み進めるごとに、読み終わるのが惜しいというよりもこの本を読み終えることができてしまうということへの寂寥感がつのった。この本が存在しているということは、ハストヴェットによる「震えている女」の捜索に彼女はいったんの区切りを設けているということで、その事実に対して少しだけやりきれない気持ちになった。しかしそういう気持ちにさせてくれるほど、すばらしい本であることも付け加えておきたい。

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 読了という言葉が苦手で、というのも読み終えるという行為は(少なくともわたしにとっては)とてもむずかしいからだ。幼いころから何度も読んでいた川原泉作品でも読み返すといまだに気づくことがあるし、ずっと本はそういう存在だった。この本でもさまざまな精神と身体にまつわる知見を取り扱っていて、それだけでも読み返したくなる本だけれど、それ以上に彼女自身の思考やときには苦悩にふれて、その軌道をなぞっていたくなることがこの先もあるのだろうなとおもった。