椿に座高計

本と生活の一部

2020/11/13『手の倫理』

『手の倫理』
伊藤亜紗
講談社

手の倫理 (講談社選書メチエ)

手の倫理 (講談社選書メチエ)

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 「さわる」と「ふれる」の違いを考えるところから、この本は始まる。著者の伊藤は序文で坂部恵の論を引くことで「さわる」は一方的であるが、「ふれる」は相互的であると紹介している。

 触覚は「対称性」とよばれる、主体と客体の入れ替え可能性が特徴的だ。「対称性」によって、わたしたちが自分の体にふれるとき、「ふれられているのは私だ」という感覚がもたらされる。この「対称性」について、伊藤は「ふれる」という観点から考察を加えている。「ふれる」行為がなされる際、ふれる側のふれられる側に対する信頼と、ふれられる側のふれる側に対する信頼が問題になる。まず、「ふれる」側というのは手を伸ばす側ということでなく、接触の方法をデザインする主導権を握る側であるという。だからこそ、先に述べた2つの信頼は異なるものとなる。前者はふれたことによる相手のリアクションが読めないことを超えること、後者はふれようとしている相手のリアクションが読めないことを超えることがそれぞれの信頼である。

 そうして形成された信頼に度合いはあるだろうが(心から、ということもあればやむを得ずということもある)、ふれた後は「じりじり」としたコミュニケーションがなされることとなる。この「じりじり」というのは熊谷晋一郎によると「ほどきつつ拾い合う関係」であるらしい。互いに相手の体に入り込む2つの体のあいだには、変化する相手の体の状態を聞き取ろうとするコミュニケーションの持続が求められる。

 鷲田清一は「ふれる」と「さわる」は単純に対立するものではなく、入れ子構造のような関係にあると論じた。わたしたちの体は物質であり、自然であり、時間的に変化していくものである。相手との触覚的なコミュニケーションは、その根底に非人間的な(倫理を超えた)自然の次元を含む。それはときに人間の死というかたちであらわれ、その絶対的な遠さに「尊さ」や「畏怖」を覚える。「手の倫理」はこの次元に対して「尊さ」や「畏怖」を含む「さわる」側面をもちながらも、先述してきた相互的な「ふれる」関係をも導くことができる。

 不埒な欲望や刺激を生じさせる可能性を保持する手は道徳的ではないかもしれないが、だからこそ手によってわたしたちはみずからの異質さに出会うことができる。その意味で、手は倫理的でありうるのである。

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 伊藤亜紗の著書らしく、というよりもそれらが執筆の契機になっているようだが、さまざまな個別のエピソードが随所に挟まれる。伊藤が継続的にインタビューをおこなっている障害をもったひとびとだけでなく、ラグビー部の監督や介護士、みずからの子息まで登場するエピソードの数々は、主張に沿うように配置されながらもそれぞれが興味深い。

 それらが大学での講義をおこなう際に引き出される雑談のように挟まれることで、わかりやすいだけでなく、疲れることなく読み進められるとおもう。こういった文章が伊藤の著書の魅力なのではないかということを彼女の他の著書をめくりながら考えていた。

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 テストが重なり、暇だろうと高を括っていた11月はもう13日になってしまった。この本は発売日すぐくらいの時期に購入して、少しずつ読み進めていくなかで、何度か『逃げるは恥だが役に立つ』のことをおもいかえした。原作も持ってはいるのだけれど、ここではテレビドラマ版の話に留めたい。

 このドラマでは合意形成が繰り返しおこなわれる。最初は住み込みでもない家事代行人だったみくりと雇い主である平匡は、雇用関係においても私的なパートナーとしても、口頭および書面での合意をたびたび明らかにしようとする。ハグを提案するみくりと頻度を交渉する平匡は物語を通して日常的にさまざまな合意を交わしながらふれあっていく。その誠実さに、わたしは「ふれる」という行為に、直接的にも間接的にもとても近い姿勢を見出す。

 最終話ではみくりの伯母である百合が風見と互いの気持ちを確かめるというシーンがあるものの、直後に風見がキスをしようと顔を近づけて百合に驚かれてしまう。そういった描写はみくりと平匡のあいだにはあまり見られない。それはみくりと平匡が相手に対してアクションを起こす前に宣言をしていたからだろう。そういった予告のないままになされた行為も描かれるけれど、その多くはネガティブな結果をもたらしてきた。彼らは恋人関係になっても両手を広げて合図をした後にハグをおこない、生活に対する不満を会議によって解消しようとする。そうすることで双方は少しでも快い暮らしをつくる努力をしているのだとおもう。

 『逃げるは恥だが役に立つ』は放送時からとても好きなテレビドラマで、さいきん同局で放送された、一見題材が似た(まったくの別物だが)作品を流し見していたときに、どうしてこうも『逃げ恥』と違うのだろうともやもやしていた原因のひとつが見つかった気がした。同じく野木亜紀子が脚本を務めた『アンナチュラル』でも、同僚の部屋に置いてあった絵本を見てもいいか許可をとる場面があり、そのシーンもとても好き。こういった誠実さを感じるテレビドラマをわたしはずっと応援していきたい。