椿に座高計

本と生活の一部

2021/5/6『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究』

『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究
國分功一郎 熊谷晋一郎
新曜社

<責任>の生成ー中動態と当事者研究

<責任>の生成ー中動態と当事者研究

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 國分功一郎と熊谷晋一郎という既に多くの著作をもつふたりによる、約10年に及ぶ共同研究の過程が記されている。討論の形式で、前提としたい知識の確認とそれぞれが持ち寄った思考を共有しながら生の意見を交わすかたちで議論が進んでいく。

 タイトルの『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究』にあるとおり、中動態と当事者研究というトピックを通じて、哲学的な話題と日常生活における実感を往来しながら、〈責任〉という概念を問い直すための足場をつくっていくような本だ。國分が『中動態の世界―意志と責任の考古学』で扱いきれなかったと反省していた〈責任〉に対して、スピノザハイデッガーをはじめとする哲学者の引用によって、熊谷がおこなう当事者研究との呼応を通した再考が重ねられる。國分は「責任とはレスポンシビリティ、つまり応答ですね。自分がやってしまったことに対して自分が応答する。それがほんとうの責任感だと思うんです。」*1とし、「責任」という言葉を再定義しようとするとき、当事者研究が大きなヒントをくれるのだという。

 この本で主に当事者研究として取り上げられているのは精神障害や薬物依存症、自閉スペクトラム症ASD)などの例だ。「べてるの家」はこの当事者研究の先進的な取り組みで知られており、なにか起きたとき、その行為や状況の責任を個人に帰属しないために、そばにいる仲間とともに行為や状況を「現象」として捉えることにしている。放火をしてしまったひとと放火を切り離し、(フェーン現象などのような)「放火現象」として外在化する場合が例に挙げられていたが、こうしていったん免責することで最終的には本人が引責できるようになるのだという。

 当事者研究のさらなる例として、熊谷の共同研究者であり本人も自閉スペクトラム症ASD)を抱える綾屋紗月の「感覚飽和」について話題が移る。意識のなかの大量かつさまざまな種類の情報入力について、私たちの多くはほとんど無意識のうちに、カテゴライズし「まとめ上げ」たり、注目すべきものの「絞り込み」をおこなう。綾屋はこのまとめ上げと絞り込みに時間がかかるため、大量の刺激が等価に、しかも意味のまとまりにならないまま意識に上ってくるのだという。また、綾屋は「他の人より内発的な意志が立ち上がりにくい」としており、それは彼女の身体の外側からも内側からも大量のアフォーダンスがやって来るからなのだという。意志の原因となるそれらのアフォーダンスに対して「まとめ上げ」や「絞り込み」をして意志という合意を形成するのに長い時間がかかる。特に注目すべきは身体の内側からのアフォーダンス、「内臓からのアフォーダンス」である。アフォーダンスは非自己から働きかけられるものだが、従来は皮膚の外側にある「モノ」に対してのみ言われてきた。しかし、必ずしも皮膚の内側が自己とは限らないため、綾屋の「内臓からのアフォーダンス」への指摘は重要なものだ。そして、綾屋は外側からのアフォーダンスと内臓からのアフォーダンスは等価だと言うが、熊谷は厳密にはスピノザ哲学のキーワードである「コナトゥス」が含まれているか否かで異なっていると指摘する。コナトゥスという概念は、人間の身体に備わっている傾向性、つまり血糖値や酸素飽和度は決まった幅の値しかとらないという恒常性の維持を指す。よって、内臓からのアフォーダンスにはコナトゥスが含まれているのである。

 「予測誤差」という概念も自閉スペクトラム症ASD)の当事者研究において重要だと熊谷は言う。予測誤差とは期待や予測(以降、期待と予測は予測としてまとめられる)が裏切られる体験を指す。熊谷はASD当事者研究を通して、ASDの当事者の一部には予測誤差に敏感な体質があるのではないか、許容量を超える予測誤差に出会うとそれがトラウマになるのではないかという推察している。また、トラウマ記憶となる予測誤差は一回性の記憶であるからこそ、予測のできる範囲(=反復するカテゴリーに入れられた状態)に入れることができない。このように、予測は過去の体験を図式化したことで発生する。カントは図式化(多様なものを一般的な枠組みに当てはまる作用のこと)をおこなうのは「想像力」(「存在していないものを存在させる能力」)とした。大雑把なイメージからなるカテゴリーを想像力によってつくり、そこに多様な現実をカテゴライズしていく行為が図式化であるという。

 乳児や胎児においても予測誤差は見られる。彼らがするような指しゃぶりは最初から成功するわけではなく、うまく口に指をもっていくことができない状態から試行錯誤の末に達成される。スピノザはあらゆる個体にはコナトゥスがあり、個体の本質はコナトゥスであると言った。コナトゥスという個体の本質としての力には期待と予測が含まれており、それらとのズレがいわゆる刺激すなわち他なるものと考えられる。議論を進めるにつれて両名は、乳児は何かしらの期待=コナトゥス=図式化の最初の力を持ち、経験を重ねるにつれて予測が増え、パターンを学習していくとともに期待すなわちコナトゥスも拡張していくのではないだろうかと提案している。そして、期待をもったコナトゥスがある閾値を超えると想像力とでも呼ぶべき力を発生させるのである。

 熊谷は当事者研究とは、コナトゥスを認めてみずからの必然的な法則を知り、それを周囲に可視化するプロセスなのかもしれないとしている。外部から見えにくい障害ではコナトゥスも見えにくいため、当事者研究が外部の目に見えにくい障害の分野で活発な背景はここにあるのだと語る。國分もスピノザ哲学とは綾屋のように中動態的なプロセスを生きている人間が自由になるためにどうしたらいいのかを考えた哲学であるとしている。外部からの影響を受けつつもその人にはその人なりの反応があり、その必然性にうまく沿って本質を十分に表現することこそが、スピノザの言う自由であった。そして、この自由は当事者研究を通して見つめ直すことができる。当事者研究においては、カオスを生きてきた人の身体や経験のなかに一定の秩序・法則を見出しており、外部からの刺激を受けながらも自閉・内向している変状の過程に重きが置かれているからである。

 アガンベンは『身体の使用』において、そのタイトルのとおり「使う」という動詞を通して主体と客体の図式に対する批判をおこなっている。「使う」という動詞は、道具などに適用されることに慣れきっている動詞であるが、國分はこの動詞を通して、身体の器官あるいはその延長にあるものについて考えている。乳児は自分の手をうまく使うことができず、何度も試しながら「こう動かすとこう動くのだ」という再現性を体感できるようになる。このとき自分の手を自分の手と感じられるようになり、こう考えると道具とみずからの身体の器官を「使う」ことには差がない。「使う」ということを通じて人は自分を認識し、このことがアガンベンの「自己とは自己の使用以外のなにものでもない」という記述に至るのだという。

 ギリシア語で「使う」を意味するχρήσθαι(クレースタイ)という動詞には中動態しか存在しない。クレースタイを考えると、何かを使うためにはそれを使う主体にならねばならず、このとき主体や客体のひとつの組み合わさった何か、自己のようなものが構成されるのではないか。そして、主語が自己の生成する場所であることを示しているのではないかと國分は語る。熊谷は多飲症を通して、クレースタイ的な使用と支配的(abuse)な使用について『暇と退屈の倫理学』において國分が説明した消費と浪費を重ねながら考察する。自分が変化せずに水のほうばかりが変化していく一方通行の関係は支配的な使用であり、自分自身も水を飲む者として変化するとき、クレースタイ的な状態なのではないかという。そして、この支配的な姿勢はあらゆる生活と切り離すことが困難となった能動態/受動態の世界観につながる。

 能動態/受動態という観念が根強い理由は、ある行為の原因を誰かの意志に帰属させ、その人に責任を取らせるという司法的な仕組みがそれを要求するからといえる。しかし、こういった支配的な責任の捉え方では、本当の意味で責任を取ることには繋がらないのではないかと両名は意見を同じくしている。その行為の原因を意志に帰属させることは、行為に先立って存在していたさまざまな原因群を追求することを遠ざける。よって、國分が言うように責任とは自分がやってしまったことに対する応答であるとするなら、能動態/受動態的な責任論はむしろ無責任なものといえる。こうして両名は中動態的に「責任」という概念を捉えることで、世間一般で言われる「責任」とこの著書において問題としている「責任」との乖離を指摘するに至った。そしてこのような視座をもたらす過程には、中動態的なプロセスを見つめてきた当事者研究が大きく寄与していたのだ。

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 ノドに大きく余白があるほか、ふたりでの対談と質疑応答ではそれぞれ下部と上部に広い余白がとられている。速く読み進められたのはこのおかげもあるだろう。視覚的にくっきりと場面転換が起こることから、ノートのようだとも感じた。

 公開対談の形式で進むために、過去の回での話題を再度持ち出して議論する場面がしばしば見られる。この形式をとらずに出版されていたなら、おそらくより整頓されたかたちで論述されていたはずの重複は、この本が研究記録なのだということを実感させてくれるようにおもう。新しい話題に即して、同じもしくは類似の話題を反復することで両名の見識がまとまりながら広がっていくような印象を受けた。

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 最近はもっぱら遺伝学の実習で使用しているハエのライフスタイルに自分の生活を合わせているのだけれど、むしろ適度に振り回されているほうが他の物事にも集中できるような気がしてきている。

 予測誤差とトラウマの箇所を読みながら、ごく個人的な記憶をなにかのきっかけで呼び覚ましてしまうこと、もしくは自発的に掘り起こすことを考えた。どうしてもそういった記憶はトラウマなのだろうし、失態であったり考えたくないことのほうをすぐに想起するけれど(この本でも負の記憶を想定して話が進んでいる)、安らぎやうれしかったこともまたトラウマのようなものなのかもしれない。目の前の相手の返答を予測しながら話してきた日々のなかで、覚えているほとんどはおそらく予測誤差の範囲から逸脱した記憶なのだろう。しかし、好ましい記憶はその刺激を反芻することでうつくしさが丸みを帯びるのに反し、おもいだしたくない記憶ほど砥がれてしまうために嫌な記憶ばかり回想する頻度を増しているように感じる。

 当事者研究と哲学的な視座のそれぞれをほぐしながら練り上げるような議論を追いつつ、自分の身の振りかたを改めて考えたほうがいいと実感した。それは従来の方法を改めるということではなく、むしろ従来を細かく整理してみることで得られるものだとおもう。それと重なるところもある部分として、最後に紹介されていたアレントの「孤独」の定義がとても印象に残った。

*1:49頁から引用