椿に座高計

本と生活の一部

2020/12/4『言葉を使う動物たち』

『言葉を使う動物たち』
エヴァ・メイヤー
安部恵子訳
柏書房

言葉を使う動物たち

言葉を使う動物たち

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 以下で「動物」と表記するとき、人間を除いた意味で用いている場合がある。

 こうした註釈が動物を扱う書籍によく見られることからも言えることだが、長きにわたって人間と動物は比較されてきた。主に哲学の分野でこの分別はなされ、その際に「言語」に注目した論が立てられることもしばしばである。人間と動物を分離して考え、人間は言語を持つが動物は持たないとする哲学者が(少なくとも紹介されていたなかでは)多数を占める。
 それに対して著者は、人間が決める言語の定義は人間に都合よくできているのが常であるとして、他の動物の言語についてその基準を当てはめながら評価することに警鐘を鳴らす。動物は専ら人間の言語とは異なるかたちで、それぞれの種において、または種を越えてコミュニケーションを図っている。この本ではコミュニケーションが行動としてあらわれる例をいくつも引きながら、動物の言葉についての考察をおこなう。また、それらの考察を通して、動物は人間に劣る存在ではないということを訴えている。

 動物の言語を考えるときには、ウィトゲンシュタインが提唱した「言語ゲーム」の考えかたが役に立つという。言語とは異なる無数の方法で使われていて、言葉やその概念の意味すること、「言語」という単語の意味内容も状況によって変わりうる。だからこそ個々の言語の使用例に言及することはできたとしても、言語一般として扱うことは不可能である(これがゲームのありようと類似している)。固定した定義がないことは、個々の動物の言語(必ずしも発話に限定されないコミュニケーション)の使用例を調査するという研究の指針となる。

 ウィトゲンシュタインは、言語はわたしたちの生活の仕方に結びついており、特定の活動を通して何らかの文脈のなかでのみ意味を獲得するとも述べた。よって、他者の言語に言及するなら、その言語が実際に使われているときの活動を研究する必要がある。わたしたちが他者(ここではヒトを含む動物全般)を理解しがたいとおもう理由は、彼らの心・思考に手が届かないからではない。彼らの習慣や礼儀作法をはじめとする、共生するにあたって意味を与えるものをわたしたちがよく知らないからだ。

 だからこそ、動物であっても彼らの文化を知ったうえで「ともに考える」ということが重要になる。ともに考えて話し合うことを可能にしてくれるのは言語である。彼らと話し合うためには、人間が抱く言語観を刷新しなくてはならない。人間に求められるのは、現在の動物が使う言語とその表現形態を斥けることなく、むしろそのありようから内面生活などの新たな意味を見出すということだ。わたしたちは動物の言語を言語であると認め、それについて考えることによって、動物との新しい関係性を築く可能性を手にすることができる。

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 動物界に属するひとつの種であるヒトをそれ以外の動物と分別することに意味はあるのか正直よくわからない。だけれど言ってしまえばそういった特定種間での相対化をおこなう(おこなってしまう)ところに人間らしさはあるのかもしれないとおもう。脳の容積的にも、そんなことを考えている余裕(暇)があるという点でもこんな分別をするのは人間くらいだろう。*1

 蛇足として、この文章を書きながら、学校で系統分類学(○○門、○○目のように生物をさまざまな階級においてグルーピングすること)を勉強したときにもウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念が紹介されていたことをおもいだした。グループそのものの固定した定義はなく、そこに入れられる個々の生物の特徴によってグループおよび分類がかたちづくられる。

 「動物」という実体の定まらない区分を設けたうえで、自分たち人間を中心にしながらその他の「動物」と線を引きたがるのは、きわめて露悪的に言えば滑稽にすら感じてしまう。著者も動物に向けられた差別的な見解を否定しながら論を進めているが、そのなかで、人間の言語に則って動物の言語を評価することはナンセンスであり動物の言語を正当に理解することにならない、という主張が見られる。これを敷衍すると、人間が勝手につくった複数の基準のもとで人間とそれ以外の動物を引き離そうとするこころみそのものをなんとなく疑問視したくなってしまう。結局人間がつくったルールのなかで人間を特別視して喜んでいるだけなのでは……?

 もしかしたらわたしのように感じるひとよりも、人間と「動物」をもともと区別しているひとのほうがエポックメイキング的に興味深く読めるのかもしれない。

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 実習はオンラインになりつつあるが、それでもたまに実験室で手を動かす機会がやってくる。実習をした後はしばらく料理をしたくなるとこの前から感じていたのだけれど、わたしの場合は使う回路が同じみたいだ(でもむかし読んだ小説にていねいなお弁当をつくる実験好きな大学教員が出てきた覚えがあるので、けっこうありふれているのかもしれない*2)。特にいろいろと試薬を混ぜたり温めたり放置したりする作業を組み合わせていく実験は、並行して複数の料理をつくっていく工程によく似ている。

 そういう生化学的な実習もある程度やりがいはあるのだけれど、やはり自分で設計した実験のほうがたのしいものであってほしい、と縋るような期待を抱いている。現時点では鳥の行動を扱っているラボに惹かれているので、そういった行動を知るための実験になるのではと予測中だ。動物の行動を研究する姿勢についてはこの本でもふれられている。ヒヒの研究者のように、動物に合わせた住空間と習慣を通してともに生きれば、互いの理解を深めることができるのだという。いまではまだ鳥とともに生きる術がわからない(そもそもたぶん鳥はラボでのみ生活する)けれど、そうして得られる動物への理解が倫理的にはたいせつであっても、実験材料とするときには逆に障害になるということはないのだろうか。このあたりは他の書籍も参照しながらもう少し考えてみたい。

 そういった実験をしながらでも、わたしはわたしでおいしく料理が食べられることを祈っている。

*1:もちろんこうした分別が暇なやつのすること、ということではない。人間がおこなう論理的思考のほとんどは採集・狩猟に費やす時間や縄張りの維持に必要な時間が減ったことによって営まれていると理解をしているので、多くの動物はそもそも概念のレベルまで思考をめぐらす時間的余裕がないだろうということ。

*2:すぐに確認できないのだけれど、確か瀧羽麻子『うさぎパン』(幻冬舎文庫