椿に座高計

本と生活の一部

2020/9/24『記憶する体』

『記憶する体』
伊藤亜紗
春秋社

記憶する体

記憶する体

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おそらく伊藤亜紗が他の著書でも書いていたことなのだけれど、プロローグ冒頭からすばらしかった。

体について研究する面白さは、合理的に説明がつかない部分が必ず残ることです。

この一文から、自身の執筆環境についての記述に入り、個々人のもつ「法則」の話になっていく。

 この体やあの体のローカル・ルールを記述すること。
 その体の、他には代えがたいローカリティ=固有性の成り立ちを解明すること。
 うまく言えないのですが、身体の研究者としていつも圧倒されているのは、実はこの固有性の方なのです。

この「固有性の圧倒」に対して答えを出すために、障害をもつひとびとへのインタビューをおこないながら「記憶」をテーマに書かれている。テーマにするといっても、演繹的に当てはめるような方法をとらずに個々のケースを強引につなげることなく考えられている。

11のエピソードから成っていて、ケース間での類似点と相違点を確認しながら話は進められる。特に「見えない」ひとと幻肢をもつひとのエピソードが豊富で、その違いなどを興味深く読んだ。

目が見えていなくても思考の過程としてメモを取ったり、点字にふれることで対応する色が頭のなかで明滅したりと「目が見えない」当事者によってほんとうにさまざまな変化がある。

また、幻肢に関しては、幻肢痛をもたないが幻肢をもつ場合、幻肢の手が体内に入っているという場合、実際に腕が胴体についていて動くにも拘らず幻肢痛がある場合などが紹介されていた。

幻肢痛は、「動くだろう」という脳の予測に対して実際に動いたという結果報告がないことで生じると考えられている。その痛みの度合いには、幻肢をどの程度動かせるかどうかが大きく関係しているという。幻肢痛をもたないが幻肢をもつ大前さんはダンサーで、足裏を「キュッと丸め」るようにして、幻肢を意識的に操作しているらしい。

先天的に体の一部を失ったケースと後天的なケースの違い(生まれつき片手のみをもつ場合は幻肢も存在しないことや、そもそも両手に慣れていないために義手をいつ使えばいいのかわからないといった感覚の違い)もていねいに説明されていた。

その他にも耳が聞こえない場合や、吃音、CIDP(慢性的な痛みを伴う神経病)、若年性アルツハイマー認知症などの当事者にまつわるエピソードが書かれていて、どれも興味深く読んだ。

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インタビューを基に書かれた本ということもあり、とてもすらすらと読めた。以前、NHKで放送されていた番組*1伊藤亜紗が「ナウシカは聴き上手ですよね」と話していたが、おそらくそれは伊藤本人もそうだからだとおもう。

こういった本やインタビューはともすれば障害をもっていてもそのひとらしく生活していてすごい、といった空気を受け取ることがあって苦手なのだけれど、この本はそういった雰囲気が一切なく、潔く感じる。本のなかでも、「最初に『病気』がくることに違和感があって、まず『私』があり、それが病気を抱えているという関わりがしたい」という当事者の発言が印象的だった。

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やっと学校の成績が発表された。とりあえず単位を落としてはいなかったのと、そんなに悪くもなかったのでいいことにする。悪いだろうと予想していたのは(単純に悪いように考えておくことでショックをやわらげる癖はあるにしても)、オンライン授業が苦手で仕方がなかったからだ。1学期に勉強した(ことになっている)事項をなにも覚えていない。

吃音は危惧していたよりは悪化しなかったけれど、今もZoomで親しくないひとと話しているときに吃音が出たときの対処法がまったくおもいつかない。特に英語だと、回避する場所がどこにもなくてつらかった。

春に『どもる体』(伊藤亜紗医学書院)を友人から借りて読んだのだけれど、返してから必要な本だと感じてこのまえ自分でも購入した。落ち着いた状態で読んでいきたいとおもう。『手の倫理』も10月に出版されるらしく、こちらも心からたのしみにしている。

2学期はなるべく家以外で勉強ができることを願っている。課題も減るといいな。

*1:コロナ新時代への提言2